昨日の8月30日は、息子の1歳の誕生日でした。
本当に多くの方々に支えられ、また可愛がっていただいて、一年という節目の日を迎えることができました。
浄土真宗本願寺派では食事の言葉というものがありますが、これを少し変えて今の心境を述べたいと思います。
「多くのいのちとみなさまのおかげにより、この日を迎えることができました。
深くご恩を喜び、心から感謝いたします。」
この子が生まれた時は、未熟児ということもあって本当に小さく、生まれたての赤ちゃんをあまり見たことのなかった私にとっては驚きでもありました。その時に、この子のためなら何があろうとも守っていくぞ、何があろうともこの子のことを第一に考えていくぞと、父親としての決意をしたものであります。
しかしながら、もちろんわが子はそれはそれは可愛いのですが、疲れきって帰ってきた日、夜中に大声で泣き出したりすると、時に勘弁してくれと思ってしまうような自分もいるのです。生まれた時に誓った決意はどこへやら。恥ずかしいことですが、親として不完全であり、また常にぶれてしまう私がいることも事実です。
その不完全な私が基準になって息子と接していくというのは、実はとても恐ろしいことなのだろうとも思います。もちろん、日々の生活の中で私や妻の経験してきたことや、学んできたことを基準に判断してしまうことが多いのですが、私たちの基準というものは常にぶれていきます。そういう危うさを持っています。ですから、ぶれることのない価値基準と申しますか、確かな指針というものをもつ、またその価値基準に照らし合わせて自己点検していく必要性があると思うのです。私にとりましてはそれが仏法であり、親鸞聖人のみ教えであります。
これからも聴聞に励んでまいります。
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